LOGINそれから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。
仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。
児童書フェア。
読書会。
手作り市。
その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。
『小さな器の販売会』
その文字を見た瞬間、足が止まった。
会場は、電車で少し行った場所にある工房。
開催日は来週の土日。
作家さんの名前。
そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。
胸が静かに鳴る。
ついに案内が出た。
私は紙に書かれた地図をじっと見た。
知らない駅。
知らない道。
この書店の二階とは違う場所。
少し遠い。
少し緊張する。
でも、行ってみたい。
その気持ちは、前よりはっきりしていた。
私はスマホを取り
それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
展示が終わった翌週、私は仕事帰りに書店の前で足を止めた。 掲示板から、『小さな器と暮らしの写真展』のチラシは外されていた。 そこにあったはずの白い紙。 器の写真。 朝倉さんの名前。 それらがなくなった掲示板は、少しだけ広く見えた。 代わりに貼られているのは、児童書フェアの案内と、地域の読書会の告知。 手作り市の日程。 知らない町の知らない予定。 展示が終わったことは分かっていた。 それでも、実際にチラシがなくなっているのを見ると、胸の奥が少しだけ寂しくなる。 でも、その寂しさは前のように空っぽではなかった。 あの展示で見た写真は、もう私の中にある。 青みのある深皿は、私の食器棚にある。 普通のヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 かぼちゃも、トマトのマリネも、少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わった。 でも、そこから持ち帰ったものは、私の普通の日の中で続いている。◇◇◇◇ 店内に入ると、紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、前とは違う本が並んでいる。 季節の料理本。 短いエッセイ。 小さな旅の本。 私は棚の間をゆっくり歩いた。 二階にはもう上がらない。 展示室は片づけられているだろう。 白い壁も、今は何も飾られていないかもしれない。 そう思うと少し寂しい。 でも同時に、次の何かを待つ場所でもあるのだと思った。 朝倉さんが言っていた。 写真は、展示が終わると箱に入って次を待つ。 本も待つ。 器も、誰かの家で使われながら時間を重ねる。 終わることは、消えることではない。 次の場所に移ることもある。 私は暮らしの棚の前で足を止めた。 器の本を
朝倉さんと並んで、『余白の席』の前に立った。 前よりも、その沈黙に慣れてきた気がする。 無理に話さなくてもいい。 沈黙が、気まずさではなく、同じものを見ている時間になる。 それが少し不思議で、心地よかった。「展示が終わったら、この写真はどうなるんですか」 私が聞くと、朝倉さんは少し考えた。「一部は作家さんの工房に飾っていただく予定です。あとは、僕の手元に戻ります」「そうなんですね」「写真は、展示が終わると少し静かになります」「静かに?」「はい。壁から外して、箱に入れて、次に出るまで待つので」 その言い方が朝倉さんらしくて、私は少し笑った。「写真も待つんですね」「待ちます」「本みたいですね」「そうかもしれません」 朝倉さんも少し笑う。 写真が箱の中で次を待つ。 器が誰かの家で使われる。 本が読まれる時間を待つ。 そう考えると、物にもそれぞれの居場所と時間があるように思えた。「作家さんの工房って、この近くなんですか?」「電車で少し行ったところです」「工房でも展示があるんですか」「時々、小さな販売会をされています。今回の写真も、その時に何枚か置いていただく予定です」「販売会」 その言葉に、少し心が動いた。 器。 工房。 写真。 今回の展示とは違う場所。 けれど、少しだけ続きのように思える。 朝倉さんは、私の反応に気づいたのか、控えめに言った。「もし興味があれば、書店に案内が出ると思います」「行ってみたいです」 思ったより自然に言えた。 朝倉さんは少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに頷いた。「作家さんも喜ぶと思います」「でも、工房って少し緊張します
展示の最終日が近づいていた。 書店の掲示板に貼られたチラシには、いつの間にか小さな紙が重ねられている。『今週末まで』 その文字を見た時、私は少しだけ足を止めた。 終わる。 当たり前のことだった。 展示はずっと続くものではない。 写真も器も、あの白い壁に置かれている時間には限りがある。 それでも、少し寂しかった。 前の写真展も終わった。 そのあとも、私の生活の中には『帰り道の灯り』が残った。 今回の展示もきっと同じだ。 終わっても、器は私の部屋にある。 青みのある深皿は、もう食器棚の白い器の隣が定位置になり始めている。 かぼちゃを入れた。 ヨーグルトを入れた。 少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わるけれど、そこから連れて帰ったものは、私の普通の日の中に残っていく。 そう思っても、やっぱり少しだけ名残惜しい。 私は掲示板の前で、しばらくチラシを見ていた。◇◇◇◇ 昼休みに、その話を佐伯さんにすると、佐伯さんはあっさり言った。「じゃあ、最後にもう一回行けば?」「行ってもいいんでしょうか」「なんで駄目なの」「何回も行きすぎかなって」「展示って、何回行ってもいいでしょ」 言われてみれば、その通りだった。 でも私はまだ、どこかで考えてしまう。 何度も行ったら、朝倉さんに会いたいだけだと思われるのではないか。 そういう気持ちがないわけではないから、余計に足が止まる。 私が黙っていると、佐伯さんはアイスコーヒーを混ぜながら言った。「会いたいだけだったら駄目なの?」 私は少し驚いて顔を上げた。「え」「もちろん、相手に押しかけたり負担をかけたりするのは違うよ。でも、会えたら嬉しい人がいるから、その場所へ行きたいって
翌日の昼休み、私は森下さんと休憩スペースで一緒になった。 自動販売機の前で森下さんがミルクティーを買い、私は温かい紅茶を選ぶ。「藤崎さん、昨日展示行きました?」 森下さんが何気なく聞いた。「行かなかった」「そうなんですね」「夕飯を作りたくて」 そう答えると、森下さんが少し目を丸くした。「夕飯を作りたくて展示に行かなかったんですか」「うん」「なんか、すごくいいです」「いいの?」「はい。藤崎さんの生活が、展示に勝った日ですね」 思わず笑ってしまった。「勝ち負けなの?」「気分的に」「昨日は茄子を買ったの」「茄子」「悠斗があまり好きじゃなかったから、前はあんまり買わなくて」 名前を出してから、少しだけ胸が痛んだ。 でも、言葉は止まらなかった。「でも昨日は、自分が食べたいなと思って買った」 森下さんは黙って聞いてくれていた。「味噌炒めにしたら少し焦げたけど、おいしかった」「それ、めちゃくちゃいい話です」「茄子が?」「茄子が、というより」 森下さんはミルクティーの缶を両手で持った。「藤崎さんが、自分の食べたいものをちゃんと優先したところが」 胸の奥が、静かに温かくなる。「写真、撮ったんですか?」「撮らなかった」「珍しいですね。最近、器とか花瓶とか撮ってたのに」「うん。誰かに見せる前に、自分で食べたかった」 言ってから、少し照れた。 森下さんは、ふわっと笑った。「それも、すごくいいです」「そう?」「はい。報告するための生活じゃなくて、藤崎さんが生きてる生活って感じがします」 その言葉に、私はしばらく返せなかった。 報告するための生活じゃない。
翌日、私は仕事帰りにスーパーへ寄った。 書店の前を通る道もあったけれど、今日はまっすぐ食材売り場へ向かった。 朝から少し決めていた。 今日は展示に行くかどうかより、まず夕飯をちゃんと作りたい。 誰かに見せるためではなく。 話すためでもなく。 私が食べるための夕飯を。 野菜売り場で、茄子が目に入った。 濃い紫色の皮。 隣にはピーマンと豚こま肉。 味噌炒めにしたらおいしそうだと思った。 でも、悠斗は茄子の食感があまり好きではなかった。 前の部屋で茄子を買う時、私はいつも少し迷っていた。 自分は食べたい。 でも悠斗はあまり進まない。 だったら別の野菜にしよう。 そうやって何度も棚へ戻した。 今日、私は茄子をかごに入れた。 ピーマンも入れる。 豚こま肉も。 それから豆腐と、明日の朝のヨーグルト。 かごの中を見て、少し笑った。 全部、私が食べたいものだった。◇◇◇◇ 部屋に帰ると、いつものように「ただいま」と言った。 薄い青のカーテン。 水色の花瓶。 少し元気をなくした花。 クラゲ。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 私は買い物袋をキッチンへ運び、茄子を洗った。 包丁を入れると、白い実が現れる。 輪切りにするか、乱切りにするか迷って、今日は乱切りにした。 料理本には載っていない。 スマホで少し調べようかと思ったけれど、やめた。 多少失敗してもいい。 味噌とみりんと醤油と砂糖。 たぶん、何とかなる。 フライパンに油を引く。 茄子を入れると、じゅっと音がした。 その音が、思っていたより心地よかった。 料理はまだ得意で
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の